Lecture1 THE MORAL SIDE OF MURDER
『犠牲になる命を選べるか?』
ハーバード 白熱教室
Lecture1 犠牲になる命を選べるか
あなたは時速100kmのスピードで走っている車を運転しているが、ブレーキが壊れていることに気付きました。前方には5人の人がいて、このまま直進すれば間違いなく5人とも亡くなります。横道にそれれば1人の労働者を巻き添えにするだけですむ。あなたならどうしますか?サンデル教授は、架空のシナリオをもとにしたこの質問で授業を始める。大半の学生は5人を救うために1人を殺すことを選ぶ。しかし、サンデル教授はさらに同様の難問を繰り出し、学生が自らの解答を弁護していくうちに、私たちの道徳的な根拠は、多くの場合矛盾しており、そして、何が正しくて、何が間違っているのかという問題は必ずしもはっきりと白黒つけられるものではないことを明らかにしていく。
ハーバード白熱教室 Justice with Michael Sandel
Lecture1 犠牲になる命を選べるか
◆ Sandel教授のトロッコ問題 (Trolly Problem)
Sandel:
あなたは時速100kmのスピードで走っている車を運転しているが、ブレーキが壊れていることに気付いた。
前方には5人の人がいて、このまま直進すれば間違いなく5人とも亡くなる。横道に逸れれば1人の労働者を巻き添えにするだけですむ。あなたならどうする?
ハンドルを切って横道に逸れる人は?手を挙げて。
(多くの手が挙がる)
では、そのまま直進する人は?
(ほとんど手が挙がらない)
その理由を聴こう。まずは大勢の意見から。
学生A:
1人を殺せば済むところを5人も殺すのは正しくない。
だから、1人を殺すことを選ぶのが正しい。
Sandel:
では、少数派の意見を聴こう。
学生B:
これは大虐殺や全体主義を正当化する心理と同じだ。
ある人種を残すために他の人種を消滅させる。
Sandel:
虐殺を起こさないために、5人を殺す?(笑)
学生B:
はい。
Sandel:
ありがとう。とても勇気ある意見だった。
では路面電車の別のケースを考えてみよう。
こっちのケースでも『5人を助けられるなら1人が死んでも仕方がない』という原理を皆が支持し続けるかどうか、見てみよう。
ハーバード 白熱教室
アメリカの名門ハーバード大学で、最も人気のある授業ー。
サンデル教授の「JUSTICE(正義)」である。
現代の難問をめぐって、世界選りすぐりの知的エリートが
議論を闘わせる。門外不出の原則を覆し、初めて公開される
ハーバードの授業。白熱教室へようこそ。
Lecture1 犠牲になる命を選べるか
あなたは時速100kmのスピードで走っている車を運転しているが、ブレーキが壊れていることに気付きました。前方には5人の人がいて、このまま直進すれば間違いなく5人とも亡くなります。横道にそれれば1人の労働者を巻き添えにするだけですむ。あなたならどうしますか?サンデル教授は、架空のシナリオをもとにしたこの質問で授業を始める。大半の学生は5人を救うために1人を殺すことを選ぶ。しかし、サンデル教授はさらに同様の難問を繰り出し、学生が自らの解答を弁護していくうちに、私たちの道徳的な根拠は、多くの場合矛盾しており、そして、何が正しくて、何が間違っているのかという問題は必ずしもはっきりと白黒つけられるものではないことを明らかにしていく。
ハーバード白熱教室 Justice with Michael Sandel
Lecture1 犠牲になる命を選べるか
◆ Sandel教授のトロッコ問題 (Trolly Problem)
Sandel:
あなたは時速100kmのスピードで走っている車を運転しているが、ブレーキが壊れていることに気付いた。
前方には5人の人がいて、このまま直進すれば間違いなく5人とも亡くなる。横道に逸れれば1人の労働者を巻き添えにするだけですむ。あなたならどうする?
ハンドルを切って横道に逸れる人は?手を挙げて。
(多くの手が挙がる)
では、そのまま直進する人は?
(ほとんど手が挙がらない)
その理由を聴こう。まずは大勢の意見から。
学生A:
1人を殺せば済むところを5人も殺すのは正しくない。
だから、1人を殺すことを選ぶのが正しい。
Sandel:
では、少数派の意見を聴こう。
学生B:
これは大虐殺や全体主義を正当化する心理と同じだ。
ある人種を残すために他の人種を消滅させる。
Sandel:
虐殺を起こさないために、5人を殺す?(笑)
学生B:
はい。
Sandel:
ありがとう。とても勇気ある意見だった。
では路面電車の別のケースを考えてみよう。
こっちのケースでも『5人を助けられるなら1人が死んでも仕方がない』という原理を皆が支持し続けるかどうか、見てみよう。
今度は君は路面電車の運転手ではなく、傍観者だ。
電車の線路のかかる橋にいて見下ろしていると電車の来るのが見えた。
線路の先には5人の労働者がいる。ブレーキは効かない。
このままだと電車は猛スピードで5人に突っ込み、5人は死ぬ。
今回は君は運転手ではない。
『何もできない』と諦めかけたとき、
自分の隣に橋から身を乗り出しているものすごく太った一人の男がいることに気づく。
もし君がこの太った男を突き落とせば、彼は橋から走ってくる電車の前に落ちる。
彼は死ぬが、5人を助けることができる。
・ さて、『彼を橋から突き落とす』という人は?手を挙げて。
(ほとんど手が挙がらない)
・ じゃあ突き落とさない人は?
(多くの手が挙がる)
突き落とさないという人がほとんどだ。
さあ、ここで質問だ。
『1人を犠牲にしても、5人を助けたほうがいい』という原理はどうなったんだ?
さっきはほとんど全員が賛成した原理はどうなったのかな?
どちらのケースでも多数派だった人の意見を聞きたい。
どうやってこの2つのケースの違いを説明するのか?
(一人の学生を指差し)君。
学生C:
2番目のケースでは人を突き落とすという能動的な選択を行わなければなりません。
僕が突き落とさなければ彼はその状況とはまったく関係がなかったはずで、
僕が彼を突き落とすという選択をしたせいで、
関係なかったはずの状況に彼を関わらせることになります。
最初のケースは運転手と5人と1人という3者の関係性だけでしたけど、
2番目はそれに別の要素が加わっていると思います。
Sandel:
でも待避線の男だって、太った男と同じに自分の命を犠牲にすることを自分で選んだわけじゃないよね?
学生C:
そのとおりです。でも線路の上にいた。
Sandel:
こっちの男は橋の上にいた!(笑)
あとでまた意見を言ってくれ。
これは難しい質問だ。キミの意見はすごくよかったよ。
この2つのケースで、多数派が矛盾した答えを選んだ理由がわかる人は?誰か・・
Andor:
最初のケースでは1人が死ぬか、5人が死ぬか、選ばなきゃいけないわけで、その結果人は死にますが、死ぬのは電車が原因であって自分が手を下したせいではないし、電車のブレーキは効かない上、一瞬でどちらか選ばなければなりません。
でも太った男を突き落とすのは殺人行為です。
突き落とすか落とさないかは自分の選択だけど電車の暴走は自分が選んだことじゃない。
だから状況が違います。
Sandel:
今の意見に対して反論がある人は?
良い意見だったが今の意見が正解だろうか?
(別の学生を指して)
学生E:
それは違うと思います。
どっちにしても、死ぬ人を選ばなきゃいけないのは同じです。
ハンドルを切って1人の人を殺すのも自分の意思による行為だし、
太った男を突き落とすのも自分の意思による行為です。
いずれも自分の選択であることに変わりはありません。
Sandel:
(先ほどの学生Dに対し)反論はあるかな?
Andor:
それはちょっと違うと思います。
やはり、実際に線路に突き落として殺すという行為だと、
自分が直に殺すということになるから・・
Sandel:
自分で手を下すからね。
Andor:
そうです。
運転していたらそれが人に死をもたらしたというのとは違います。
不謹慎かもしれませんが...。
Sandel:
いや、良い意見だ。キミの名前は?
Andor:
"Andor"
Sandel:
Andor, じゃあ、もうひとつ質問だ。
橋の上で太った男の隣にいるのは同じだが、突き落とさなくてもいいと仮定しよう。
彼は落とし穴の上に立っていて、キミはハンドルを回すと彼を落とせるとしよう。
(学生たちの笑いと拍手)
ハンドルを回すかい?
Andor:
いや、それは、さらにしてはいけないことのように思えます。
Sandel:
そうか
Andor:
偶然ハンドルに寄りかかったら、回っちゃった~ とかならいいけど(笑)
Andor:
あるいは、電車が落とし穴のスイッチに向かって突進しているとかなら納得できますけど。
Sandel:
よろしい、やはり抵抗があるんだね。
最初のケースではハンドルを切るのは抵抗がなかったけど・・
Andor:
最初のケースでは始めから状況は当事者だけど、このケースでは傍観者なわけです。
男を突き落として初めて当事者になるわけで・・
Sandel:
OK.
◆ 臓器提供の問題
今度は、君は緊急救命室の医者だと仮定しよう。
そこへ6人の患者がやってくる。
彼らは、ひどい路面電車の事故に遭ったんだ。(笑)
うち、5人は中等度の怪我をしている。1人は重傷だ。
重傷患者に一日中掛かりきりで手当てをすれば助かるが、その場合5人は死ぬ。
逆に比較的中等度の5人の手当てをすれば5人は助かるが、その間に重傷患者は亡くなる。
・ 医者として5人を助けるという人?
(多くの学生の手が挙がる)
・ では、1人を助けるという人?
(数人の手が挙がる)
とても少ない。ひと握りの人だけだ。
同じ理由だろうね。1人の命対5人の命だ。
では、別の医者のケースだ。
今度は君は移植医で、生きるためには臓器移植がどうしても必要な5人の患者を抱えている。
5人はそれぞれ、心臓、肺、腎臓、肝臓を必要としている。最後の1人はすい臓だ。
そして臓器のドナーはいない。君は5人の死を目前にしている。
そのときキミは隣の部屋に、健康診断を受けに来た一人の健康な男がいるのを思い出す。(笑)
彼は昼寝をしている!(笑)
そっと部屋に忍び込んで5つの臓器を抜き取れば、その人は死ぬが、5人を助けられる!
・ 『自分ならそうする』という人?
いるかな?そうする人は手を挙げて。
(手を額にあてて手を挙げている人がいるか探すしぐさ)上の方の人は?
学生F:
僕はそうします。
Sandel:
ホント? そうはしないという人?
(ほとんどの学生の手が挙がる)
Sandel:
よし、じゃあ意見を聞こう。
上にいる「健康な人から臓器を抜き取る」という君、理由は?
学生:
僕は違う可能性に賭けたいです。
臓器を必要としている5人のうち、最初に亡くなった人の4つの臓器を使って残りの4人を助けるんです。
(一瞬の沈黙のあと、拍手)
Sandel:
それは名案だ。実に素晴らしい。
ただひとつの難点は……
私の設定した哲学的な問題を台無しにしてしまったところだ。(笑)
さて、今までの話や議論から一歩離れて、
議論が展開してきた方向について明らかになった、いくつかの点を見て行こう。
今までの討論から、道徳の原理がいくつかその姿を見せ始めている。
これらの道徳的原理がどのようなものか、考えてみよう。
◆ 帰結主義 vs. 定言的道徳原理
(Consequential vs. Categorical)
(Consequential vs. Categorical)
討論から出てきた、最初の道徳的原理は、
何をするのが正しくて道徳的か?ということは、行動の帰結で決まる
ということだ。
つまり、帰結、結果が良ければ善いわけだ。
1人が死ななければならないとしても、5人が助かるほうが善い。
これが、帰結主義者が道徳を論じるときの論じ方だ。
帰結主義者は、行為の帰結に道徳性を求める。
つまり、その行為によって社会が恩恵を受けることが大事なわけだ。
しかし、もう一歩進んで考えてみたところ、
別のパターンでは、帰結主義的な論法には賛同しない人が多かった。
ほとんどの人が、橋から太った男を突き落としたり、
何の罪も無い患者から臓器を取り出したりすることには、躊躇いを覚えた。
躊躇う理由は、行為の帰結とは関係なく、行為の本質に関係があるようだった。
帰結として5人が助かるとわかっていても、そうしようと思わない人が多かった。
何の罪も無い人を1人殺すことは、無条件で、すなわち定言的に間違っていると考えた。
少なくとも、例として挙げた話の2番目のケースでは、無条件で定言的に間違っていると考えた。
これは、道徳を考える際には、定言的な考え方もある ということを示している。
定言的な考え方では、帰結がどうであれ、ある種の絶対的な必要条件や、義務や権利の中に道徳性を求める。
道徳原理 (MORAL REASONING)
・ 帰結主義者 (Consequentialist)行為の帰結に 道徳性を求める: Jeremy Bentham ⇒ 功利主義 (Utilitarianism)
・ 無条件的【定言的】な考え方 (Categorical)ある種の必要条件 義務 権利の中に道徳性を求める。: Immanuel Kant
定言的=哲学で 仮定・条件を設けず、無条件に主張するさま
今後の講義では、帰結主義者と無条件的な道徳原理との間の対比を見ていく。
帰結主義者の道徳理論で、最も影響力のある例は、
18世紀のイギリスの政治哲学者 Jeremy Bentham が産み出した主義、
功利主義 (Utilitarianism) だ。
一方、定言的な道徳理論の最も重要な哲学者は、
18世紀のドイツの哲学者 Immanuel Kant だ。
この講義では、この2つの異なる道徳理論の論じ方を学び、評価すると同時に、他の論じ方を見ていく。
数多くの名著を読んでいく。
Aristotle, John Locke, Immanuel Kant, John Stuart Mill らの著作だ。
本を読むだけではない。
哲学的問題を提起する、現代政治や法律の議論も取り上げる。
「平等と不平等」、「差別是正措置 (Affirmative Action)」、「言論の自由 vs 憎悪発言」、「同性同時の結婚」「徴兵制」等、一連の時事問題についても議論していく。
なぜか?
過去の抽象的な名著を蘇らせるだけではなく、哲学のために、私たちの日常生活、および政治的生活における哲学的な問題を明確にするためだ。
だから、これらの本を読み、問題を議論し、どのように名著同士が情報を与え、啓発し合うか見ていこう。
◆ 哲学のリスク
楽しそうに聴こえるかもしれないが、ここでひとつ警告しておこう。
これらの本を自己認識におけるエクササイズ、自分をより深く理解するための訓練として読むことには、ある種のリスクがある。
リスクには個人的なリスクと政治的なリスクの両方があるが、
そのことは政治哲学を学ぶ学生なら、誰でも身を持って知っていることだと思う。
1. 個人的なリスク (Individual risk)
・ なぜこのようなリスクが発生するか?
哲学という学問は、私たちを、私たちが既に知っていることに直面させて、私たちに教え、かつ動揺させる学問だからだ。
ここに皮肉がある。
この講義の難しさは、君たちが既に知っていることを教えるという点にある。
それは、慣れ親しんで疑いを感じたこともないほどよく知っていると思っていたことを、見知らぬことに変えてしまうこともある。
私たちが今日の講義の冒頭で取り上げた例が、まさにそれにあたる。
「遊び心」と「真面目さ」を両方織り交ぜた仮説だったつもりだが、
哲学の本がどう役に立つか ということもこれと同じだ。
哲学は、私たちを慣れ親しんだものから引き離す。
新しい情報をもたらすことによってではなく、
新しいものの見方を喚起することによって、引き離すのだ。
しかし、ここにもリスクがある。
慣れ親しんだものが見慣れないものに変わってしまえば、それは二度と同じものにはなりえない。
自己認識とは、純真さを失うようなものだ。
不安を感じるだろうが、私たちは皆そんな思いを経験し、探求を続けてきた。
この試みを難しく、しかし面白くしているのは、道徳や政治哲学は物語であり、その物語がどこに連れて行ってくれるかはわからないが、それが自分についての物語だということはわかっている ということだ。
これが個人的なリスクだ。
2. 政治的なリスク (Political risk)
・ では、政治的なリスクは何だろうか?
本を読み、問題を議論することで、「より良い、責任感のある市民になれる」と君たちに約束するのも1つの方法だ。
それによって君たちは、公共政策の前提を検討するようになり、自分の政治的判断に磨きをかけ、公共の事柄により効率的に参加できるようになる。
しかし、この約束は部分的にしか実現せず、違う結果に終わってしまうことが多い。
政治哲学はほとんどの場合、そのようには機能してこなかったからだ。
政治哲学は君たちを『良い市民』にするよりも、『悪い市民』にする危険性を秘めている。
少なくとも、『良い市民』になるを過程で一旦『悪い市民』になってしまう可能性がある。
なぜかというと、哲学は人を社会から距離を置かせ、衰弱させるような活動だからだ。
Socrates の時代でもそうだった。
Plato の『Gorgias』という対話の中で、
Callicles は Socrates に哲学をしないように説得する。
「人生の然るべき時に節度を持って学ぶなら 哲学は可愛いオモチャだ。要するに、
しかし、節度を越えて追求するなら破滅する。私の助言を聴きなさい。
議論を捨てよ。行動的な人生の成果を学べ。
気の利いた屁理屈に時間を費やしている人ではなく、
善良な生活と評判と他の多くの恵みを持っている人を手本にせよ。」
「哲学なんかやめて、現実を見よ、ビジネススクールに行け。」(笑)
と言っているわけだ。
◆ 懐疑主義 (Skepticism) と Sandel の反論
Callicles の言うことも、もっともだ。
哲学は、常識や約束事、なんとなく「そうだ」と信じていることに疑いを抱かせる学問だ。
これは個人的にも、政治的にもリスクである。
これらのリスクに直面したとき、よく使われる言い訳、
例を挙げると、それが、「懐疑主義」(Skepticism) だ。
私たちは色々なケースや原理について議論したけれど、何も解決しなかった。
Alistotle や、Locke, Kant でさえ、長年かけても解決できていないのだから、この講堂に集まった私たちが、たった数回の講義で解決できるわけがない。
要するに、
各自が自分なりの原理を持てばいいのであって、それ以上の議論は必要ない。これが懐疑主義の言い訳だ。
論じても無駄である。
これに対しては、私は次のように答えたい。
確かにこれらの問題は長年に渡り議論 されてきた。
しかし、それが繰り返され、議論され続けてきたという、まさにその事実が、
この問題の解決は例え不可能であっても、
議論を続けることは避けられないということを示唆している。
なぜ避けられないか?
私たちは、毎日、これらの疑問に答えを出しながら生きているからだ。
だから懐疑主義に飲み込まれ、諦めてしまい、道徳に関する熟考を止めてしまっては、
解決にはならない。
Kant はこの懐疑主義に絡む問題を、次のように表現している。
『懐疑主義は人間の理性の休息所である、懐疑主義は人間の理性の休息所である。
しかし、永遠に留まる場所ではない。』
Immanuel Kant
そこは独善的な彷徨いを熟慮できるところだ。
しかし永久に場所では留まる場所ではない。
単に懐疑主義に同意しても、理性の不安を克服する事は決してできない。
私は、対話や議論を通じて、ある種のリスクと誘惑、その危険と可能性を示そうと思う。
この講義の目的は、
理性の不安 (restlessness of reason) を目覚めさせ、
それが何処へ導いていくのか、見ることだ。
と述べて締めくくりの言葉としたい。

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