May 26, 2010

Lecture4 "HOW TO MEASURE PLEASURE"
(JUSTICE with Michael Sandel)

『高級な「喜び」 低級な「喜び」』


Lecture4 高級な「喜び」 低級な「喜び」
サンデル教授はもう一人の功利主義の哲学者、ジョン・スチュワート・ミルを紹介する。ミルは、道徳性の高さは効用の大きさで決まると考え、「望ましいものとは、実際に人が望むものである」と述べた。さらに、功利主義が高級な喜びと低級な喜びを区別することが可能だと論じている。区別する方法とは、両方を経験した人が選ぶほうが、より好ましい喜びだ、というのだ。その実証のため、サンデル教授は学生たちにシェイクスピアと、人気のアニメやTV番組を比較させる。さて、高級な喜びに選ばれたのは・・・?




すべての価値と好みを集計することが、いかに難しいか

◆ Michael Sandel 教授の学生時代の例

私が Oxford 大学の院生だったころ、Oxford の College は男女にわかれていた。
女子 College に男性を泊めることは禁止されていた。
でもそれは形だけの物だ。
……と、私は聞いた(笑)

しかし時代は変わり、規則の緩和を求める圧力が強くなった。
それについて会議を開いたとき、年配の女性は保守的で反対だった。
本当の理由を言う事が恥ずかしいかったから、功利主義にすり替えこう反論した。
■ 男性が泊まると大学の出費が増える
   ・男性が風呂に入るとお湯の消費が増える
   ・マットレスを交換する頻度が増える
会議の結果、条件付きで規制が緩和された。
■ 条件
   ・女性が泊められる男性は週に3人までとする
      同じ男とする決まりは無かった(笑)
   ・宿泊客は50ペンス払わなければならない
翌日の全国紙にはこう書かれていた。

"St Anne's の女の子は一晩50ペンス"

この条件には、"貞節"という価値が考慮されていなかった。
すべての価値と好みを集計することが、いかに難しいかを表す例になるだろう。


● 功利主義への疑問
・ ドルという単一基準ではかれるのか?
・ 高級な喜びと低級な喜びに違いはないのか?
優劣を付けないのは魅力的だ。判断が必要ないし、平等主義的である。
Bentham の功利主義は誰の好みも重要で、その種類ではなく、効用は大きさと長さだった。
Bentham は言った。
"喜びの量が同じであれば、プッシュピンは詩と同じように良い。"
  Jeremy Bentham

他人の喜びを比較して、どちらが優れているか判断する権利はない。

しかし本当にそれでいいのだろうか?
・ 喜びの優劣を考慮しなくていいのだろうか?
ある種のものは他より優れていたり、価値が優れているという考えを取り払って良いのだろうか?

大勢のローマ人の喜びのために、キリスト教徒の人権が侵害されていた。
より多くの人の幸福のためには、戦いを見物するローマ人が享受していた邪悪で下劣な喜びにも何らかの価値を与え、評価しなければならないのだろうか?

◆ Mill は功利主義を血の通った物にしようとした
これらの疑問に対して、Mill は個人の権利など人道的問題や低級高級を、区別する必要性を考慮し、功利主義の計算法を拡大し、修正出来るか確かめようとした。

彼は著書"自由論"で、個人の権利と少数派の権利を擁護することの重要性を説いた。
1861年には"功利主義論"を発表。
Mill は、道徳の高さは効用の大きさで決まると考えていた。
Bentham の前提を否定したわけではない。
"望ましいものとは、実際に人が望むものである。"
   John Stuart Mill

経験から産まれる願望こそ、正しい道徳的判断の根拠である。
では、功利主義者はどうやって劣ったものや卑しいもの、価値のないものから、質の高いものを区別するのか?
"人々の願望や好みを除外して考えることは出来ない。
 何故ならそれでは功利主義の前提を崩してしまうことになるからだ。
 高級な喜びと低級な喜びを区別する方法はただ一つ。
 両方を経験した人がそれを好むかどうかだ。
"

   John Stuart Mill

"二つの喜びのうち、両方を経験した者が、全員またはほぼ全員、
道徳的義務感と関係なく迷わず選ぶものがあればそれがより好ましい喜びである。"

   John Stuart Mill

果たして Mill の方法は正しいだろうか?
    これで高級な喜びと低級な喜びを区別出来るだろうか?

出来る    :少数派
出来ない :多数派

◆ サンデル教授の実験

HAMLET, Fear Factor, The Simpsons の3つの映像を流し、どの作品が好きか拍手の大きさで評価した。
その後、どの作品が最も価値のある最高の経験・喜びであるか質問した。

作品                  拍手  高級だと思った人数
Shakespeare     小       多数
Fear Factor       中       極少数
The Simpsons   大       少数

好きとは別にして、The Simpsons が実際に高級な経験だと思う人より、Shakespeare の方が高級な経験だと思う人が多い。

● それは何故か?
Shakespeare が最も高級だと考える中で、実際にはThe Simpsons が好きだという人の意見を聞く

Alesha:
The Simpsons は見てるだけで笑わせてくれるので楽しめる。
しかし Shakespeare を楽しむには、読み方や解釈の仕方を誰かから教わる必要がある。
REMBRANDT の絵画と同じように。

Sandel:
もし誰かが、Shakespeare の方が良いと教えたら、無条件で受け入れるのだろうか?
Shakespeare が高級だと言ったのは、そう教えられたからなのか?
それとも自分自身でも納得しているのだろうか?

Alesha:
Shakespeare は違うが…、REMBRANDT はそうだ。
REMBRANDT の絵はすごいと言われれば、すごいと思うが、
実際は彼の絵を分析するより漫画を読む方が楽しい。

Sandel:
文化と伝統の圧力もある程度あるだろう。
私たちはどれが良い作品か教えられているからね。

Joe:
The Simpsons が一番面白いと感じた。
でも残りの人生を3つのうちどれか1つを考えて過ごすなら Shakespeare 。
深い喜びについてじっくり考えれば、自分自身の視野が広がり、
更に多くの喜びを引き出すことが出来ると思う。

Sandel:
では、残りの人生をカンザスの農場で過ごすことになって、
Shakespeare か The Simpsons どちらか一つしか見られないとしたら、
Shakespeare を選ぶんだね。


Mill は高級なものと低級なものの両方を経験した人は、必ず高級なものを好むと言ったが、実験の結果、それは証明されただろうか?

・Mill は正しいとした意見
Joe:
ネズミの脳には強烈な快楽をもたらす神経があり、この神経を刺激する方法を学んだネズミは、食べることも忘れ死んでしまう。
それだけ強烈な快楽を得られるからだ。
強烈な喜びは、生涯にわたって得られる喜びよりも、質の低いものだと思う。
勿論、強烈な悦びを得たいと思うが(笑)
長い目で見れば、ここにいるすべての人が、束の間の快楽に溺れるネズミであるよりも高級な喜びを享受する人間でありたいと考えるだろう。

このことから証明される…証明とまでは言わないが、2つの喜びのうち、
どちらかを選ぶか訪ねられた時、過半数の人が高級な喜びを選ぶはずだ。

Sandel:
つまりMill は正しいと?

Joe:
はい。


・Mill は誤っているとした意見
学生C:
人は良いものを選びます。それは相対的なもので、客観的な定義はありませんから、The Simpsons がより好まれる社会もあるでしょう。
The Simpsons は誰でも理解できますが、Shakespeare を理解する教育が必要だと思います。

Sandel:
なるほど、高級なものには、教育が必要だというわけだ。
Mill も高級な喜びは理解と教育が必要だと言っている。
その点は争っていない。
そして一度教育されると、人は高級なものと低級なものの違いがわかるようになり、
更には実際に低級なものより高級なものを好む様になると言う。
Mill も同じことを言っている。

"満足した豚であるより、不満足な人間であるほうが良い
 満足した愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い
 その愚者がもし異を唱えたとしても、
 それは愚者が自分の側のことしか知らないからに過ぎない"
   John Stuart Mill

ここからも高級な喜びと低級な喜びを区別しようとする Mill の姿勢が見て取れる。

美術館に行くか、家のソファーでビールを飲みながらテレビを見るか。
時には後者の誘惑に負けることもある。それは Mill も承知している。

しかし私たちは、ものぐさにダラダラ過ごしている間も、
美術館で REMBRANDT の絵画をじっと見れば、
もっと高級な喜びを得られると知っている。
どちらも経験しているからだ。

そして REMBRANDT を鑑賞することが高級なのは、
それが人類の高度な能力に関わっているからだ。


● 個人の権利が尊重されていないという反論に、Mill はどう答えようとしたのか?

ある意味では同じような論拠を使っていて、彼はこう言った。
"私は効用に基づかない正義の架空の基準を作り出す、
 どのような見せかけの理論にも異議を唱える。
 一方で、効用に根ざした正義こそが全ての道徳性の主たる部分であり、
 比類なく最も神聖で、拘束力をもつものであると考える。"

   John Stuart Mill

つまり、正義はより高級なもので、個人の権利は特権的だが、
功利主義の条件から外れない場合においてのみ尊重される
"正義とはある種の道徳的要請の名称であり、
 集合的に見れば社会的効用は他の何よりも大きく、
 他の何よりも優先されるべき義務なのである。"

   John Stuart Mill


正義は神聖で最優先されるべきものであり、
それは劣るものと簡単に交換できるものではない。
「しかしその理由は功利主義者の考え方に基づいたものである」
と Mill は主張する。
私たちが考慮すべきは、人類全体の進歩で、長期的利益である。
もし私たちが正義を行い、権利を尊重すれば、社会全体が向上する。


● この考えに説得力はあるだろうか?
それとも Mill は、質の高い喜びや神聖で重要な個人の権利について論じることで
知らずに功利主義の枠組みからはみ出したのであろうか?

権利と正義について論じるためには一度功利主義から離れ、
別の方法で権利とは何かを説明し、
それらの考え方が成功しているかどうか確かめなければならない。



ところで・・・

死者はどのような形で人の役に立つことが出来るか
Bentham は解剖学のために研究に使うことだと考えた。
だが、偉大な哲学者の場合は
未来の思想家を刺激するためにその肉体を保存する方が良いとした。
London 大学では Bentham の遺言に従い、体を補完している。
防腐処理に失敗して頭は蝋で出来ているがね。
本当の頭は足元にある。皿の上に!(笑)
大学は Bentham の体を会議に着かせて、
「議事録に出席したが投票せず」と書いているそうだ。

これこそ哲学者だ。
生きている間も、死んでからも、自分の哲学の原則に忠実であった。

Lecture3 "PUTTING A PRICE TAG ON LIFE"
(JUSTICE with Michael Sandel)

Lecture3 PUTTING A PRICE TAG ON LIFE
『ある企業のあやまち』

Lecture3 ある企業のあやまち
ベンサムの功利主義の中心となる考え方である「効用の最大化」、つまり最大の喜びをもたらすものこそ最善である、という論理をさらに具体的に考える。「すべての便益の合計から、代償を差し引いたとき、幸福が苦痛を上回るだろうか」というこの論理は、「費用便益分析」という名で、昔から企業や政府でよく使われてきた。サンデル教授は、事例をいくつか挙げる。政府がたばこの消費税率を上げようとした時、あるたばこ会社は費用便益分析を行い、「政府は、国民の喫煙によって得をする」という結論を出した。1970年代には、アメリカの自動車メーカーが、人の命に値段をつけて、リコール問題における費用便益分析を行った。多数派が残酷で、卑劣であっても、私たちは常に多数派の幸福をより重視すべきなのだろうか?すべての価値をお金のような共通の基準を用いて足し合わせ、比較することは可能なのだろうか?

ハーバード白熱教室 Justice with Michael Sandel


◆ 便益の合計(Total Benefit) — 代償(Cost) > 苦痛(Pain)

Sandel:
Bentham の功利主義 (Utilitarianism) は、一般的福祉を最大化し、快楽が苦痛を上回るようにする"効用の最大化" (Maximise Utility) にある。
人は苦痛と喜びに支配されていると考え、だからどんな時も喜びを考える必要がある。
社会や共同体は個人の集まりである以上、政策や法律、正しい行いを決める時、人は問いかける。
全ての便益の代償を差し引いたとき、幸福が苦痛を上回るだろうか?
便益の合計 ― 代償 > 苦痛となるだろうか?

企業は昔から費用便益分析 (Cost-Benefit Analysis) という功利主義を行ってきた

チェコで煙草の消費税率を上げる提案があった時、アメリカの煙草会社がチェコにおける煙草の費用便益分析を行った。
その結果、チェコ政府は国民の喫煙で得をすると結論づけた。

◆ 国民の喫煙の費用便益分析
費用
   医療費の増加
便益
   税収の増加早期死亡による医療費節約
   早期死亡による年金節約
   早期死亡による高齢者用住宅費の節約

※市民が喫煙した場合の純利益は1憶4700万ドルで、
早期死亡により1人あたり1,227ドル節約出来ると結論づけた。
しかし、これらの計算には命の価値が抜け落ちていると批判されタバコ会社は謝罪することとなった。


70年代に存在したFord 社の PINTO という車には燃料タンクの位置に問題があった。
後ろから衝突事故を起こすと車が炎上してしまう。
メーカーは燃料タンクの問題を把握していたので、保護シートを装着する改善費用を便益分析した。
これは当時の裁判の資料として実際に提出された。

◆ 車のリコール費用便益分析
費用
  1台11ドル*1250万台
                                        =1億3,700万ドル
便益
  死者180人 * 200,000ドル
  負傷者180人 * 67,000ドル
  修理費2000台 * 700ドル
                                        =4,950万ドル

※この分析から、欠陥を放置したため、裁判では多額の賠償金を支払うことになった

● これは命の価値をドルに変えて換算した功利主義といえないだろうか?

学生A:
煙草会社の便益分析と同様である。家族の苦痛を考慮していないので、もっと被害額がある。

Sandel:
愛する人が失われるのに20万ドルでは安すぎる?

学生A:
金額が低すぎることではなく、命の価値を数字に表せない。

学生B:
インフレを考慮して現在なら200万ドルにするべきだ(笑)
命の価値は何らかの数字で表すことは出来る。

Sandel:
(リコールを行うかなど)何かの決断にそれは必要であるというわけだ。

学生C:
費用分析をしないと企業は潰れてしまう。
倒産してしまったら、より多くの人が不便を被り、不幸となる。

Sandel:
年間2000人の人が運転中の携帯電話の通話で事故死している。
ハーバード大学リスク分析センターの分析によれば、
運転中通話を行いもたらす便益と、失われる命の価値はほぼ同じと結論づけた。
運転中に商談すれば、時間が節約され、経済効果が産まれるからだ。
それでもなお、命の価値をドルに変えることは、間違いだと思わないか?

学生D:
もし、大多数の人が携帯電話を使って、その利便性を最大限に活かしたいなら
それは仕方のないことだと思う。

Sandel
企業が行った費用分析は、功利主義の考え方の一つにすぎない。
● では、功利主義の考え方に賛成だろうか、反対だろうか?

賛成: 少数派
反対: 多数派

・ 功利主義への反対意見
学生E:
少数派が軽んじられていることが問題である。

Sandel:
つまり少数派への効果を心配していると。面白い意見だ。

学生F:
でも、多数派は数が上回っているだけで個々の価値は同じだ。
人々の意見を集計した結果、多数派が採用されたのは、より大きな幸福のためである。

Sandel:
例えば古代ローマでは、ローマ人の娯楽のためにキリスト教徒とライオンを戦わせていた。
その様子を見て楽しんでいるローマ人の幸福は、キリスト教徒の苦痛を上回るだろうか?

学生F:
それは過去の話だが、現在ではローマ人の幸福は認められないと思う。

Sandel:
しかし、最初の君の意見を突き詰めるとそうなってしまうよ。

学生F:
食べられた船員のように、多くを生かすために少数派を殺すのはおかしい。
Parker にも生きる権利はあったはずだ。
少数派の権利は、効用のために犠牲になるものではない。


功利主義 (Utilitarianism) への反論をまとめる
・最大多数の最大幸福のため、少数派個人の権利が尊重されていない
・全ての価値と好みを集計することは不可能である
全ての価値と好みを集計することは不可能だという意見に対して、Thorndike は全ての価値を一律で表すことは可能であるとした。
彼は生活保護を受ける若者を対象に不愉快な行為のリストを渡し、いくらのお金でそれらをやるかアンケートした。

順位    行為 金額
1.  余生をカンザスの農場で過ごす  300,000ドル
2.       15センチのミミズを生きたまま食べる  100,000ドル
3.  歯を抜く                                                  4,500ドル
※(大恐慌時代は歯を抜くぐらいで金をもらえるのであれば誰でも抜いた。)

これを受けて Thorndike は、
"望みであれ満足であれ、ある程度存在していれば何でも測定出来る"
とした。
果たして、
・ すべての価値を同じ尺度で測る Bentham の功利主義的な考えは正しいのか?

・ それとも人が重んじていることは、命であれカンザスであれミミズであれ、
    一律の価値基準は当てはまらないのか?
・ 後者が正しいとなれば、功利主義の道徳原理は壊れてしまうのか?

それらを検証するためには、Jerremy Bentham と John Stuart Mill のいくつかの著書を読まなければならない。

◆ 功利主義と経済と命の問題
    便益分析の例では、人が死んでも費用がかからないならそれで良かった。
    経済的に考えると、人はいかに極端になりおかしくなるか。
    その考えの中心にある功利主義の問題を提起したのではないだろうか。

May 23, 2010

Lecture2 "THE CASE FOR CANNIBALISM"
(JUSTICE with Michael Sandel)

Lecture2 THE CASE FOR CANNIBALISM
『サバイバルのための殺人』

Lecture2 サバイバルのための殺人
サンデル教授は、19世紀の有名な訴訟事件「ヨットのミニョネット号の遭難事件」から授業を始める。それは、19日間、海上を遭難の後、船長が、乗客が生き残ることができるように、一番弱い給仕の少年を殺害し、その人肉を食べて生存した事件だった。君たちが陪審員だと想像して欲しい。彼らがしたことは道徳的に許容できると考えるだろうか?この事例を元に、哲学者、ジェレミー・ベンサムの功利主義「最大多数の最大幸福」についての議論を戦わせていく。

ハーバード白熱教室 Justice with Michael Sandel

Sandel:
前回の論争の内容から二つの見方がわかった。
前回は個々のケースを判断することから始め、その判断の背後にある理由・原理をはっきりさせようとした。
別のケースを検討する際には、原理を再検討し、他の原理と照らし合わせ見直した。
すると、それぞれの判断や見直した原理を、整合がとれたものにしようとする無意識の圧力が働くことがわかった。

行為の道徳性を行為の帰結により判断する傾向にある
    →帰結主義 (Consequentialist)

行為の道徳性を帰結ではなく内容の性質が大事とする
    →無条件的原理 (Categorical)

Bentham の功利主義 (Utilitarianism)
    -最大多数の最大幸福-
    ("the greatest happiness for the greatest number")
帰結主義者の道徳理論の中で最も影響力のある Bentham は、
功利主義の道徳理論に、初めて明快な、系統だった説明を与えた。

彼の考える正しい行いとは、効用を最大化させることであるとした。
人は苦痛より快楽、受難より幸福を求める。
だから道徳性もそれに基づくべきである。


効用とは、幸福や喜びである。
人生の選択、何をするか、法律はどうあるべきか、何が正しい行為か、
について個人・全体で考えるとき、
全体の幸福を最大化するやり方で行動すべきだと考えた。



◆ 19世紀イギリス ミニョネット号沈没事件

ミニョネット号は海難事故にあい沈没、生き残ったのは4人。

船員の、Dudley、Stevens、Brooks、給仕のParker。
Parker は、孤児であり、17歳と最年少だった。

食料が尽きて久しく、とうとう Parker は制止を振りきって海水を飲み、衰弱死しかけていた。
飢え死にしかけた頃に、Dudley はくじ引きで誰か一人を殺して食べようと提案した。
しかしBrooks がそれを拒否、結局くじ引きは行われなかった。

そしてある晩 Dudley と Stevens は結託、Brooks に目を背けさせ Parker の頚動脈を切り殺害。
Brooks も含め3人で Parker の血肉を食し、生き延び、救助された。
しかし彼らは殺人の罪でイギリスで裁判にかけられた。


法律は横に置いておき、

生き延びるために人を殺して食べた行為は道徳的に許されるだろうか?

道徳的であり許される: 少数派
非道徳的で許されない: 多数派

・多数派の意見
学生:
道徳的に非難はされるが、必要性の程度が有罪を免除するケースである。
生き残って、その後大規模なチャリティ活動に従事したとしたら、
社会は大きな幸福を享受出来るのではないだろうか。
そうであれば、功利主義的に正しい行為だ。


・ 少数派の意見
学生:
人が人の命を奪う権利はない。
でも、Parker の同意があれば違ってくるかもしれない。


同意があれば行為は正当化されるだろうか?
正当化される:      増加
正当化されない:   減少

正当化されると考えた人が大きく増加した。
● 何故同意があれば正当化されるのか?

犯行にたらしめたのは、自分の命が彼の命より大事としたことだ。
彼が殺されることを彼自身が知らなかったこと が問題であった。
適正な手続きを踏めば問題なかった。

Parker に同意を取り付けたり、くじ引きを行っていたりすれば、
つまりは、同意があればあるほど許されると考える人が増えた。

● 適正な手続きがあれば許されるのか?

学生A:
でも殺人は殺人だ。例外はない。

Sandel:
彼らに家族があってもそうだろうか?
Parker は孤児だったが、他の船員には養うべき家族がいる。
Parker を殺す事で、彼らの家族もまた幸せになるのではないだろうか?

それでも殺人は誤りだとするなら、Bentham の功利主義は間違っているのだろうか?

学生A:
自分をより良くするために殺すのは許されない。
Parker だって生きる権利があったはずだ。
これは権利の侵害である。
Bentham の功利主義は間違っている。


ミニョネット号の事件の見解をまとめる

1. 彼らは必要な行為をした。仕方がないことだ。

2. 公正な手続きを経れば良い。
    (一人ひとりが平等に扱われるべきである。その結果誰かが犠牲になっても)

3. 同意を得られれば良い。

4. 殺人は殺人。無条件原理的に彼らは間違っている。
    (殺人が無条件的に誤っている理由を考える必要がある)


◆ これらの見解からいくつかの疑問も生じる。

1. 殺人が正当化されないのは Bentham の最大幸福からでないとすれば、
    そのある種の基本的権利 (fundamental rights) はどこからくるのか?

2. 公正な手続きを踏めば、正当化出来るのか?

3. 同意(consent) が行う道徳的な働きとは?
    同意が道徳的違いを産むのは何故か?
    命を奪う行為が、同意があれば道徳的に許されるのは何故か?

May 4, 2010

Lecture1 "THE MORAL SIDE OF MURDER"
(JUSTICE with Michael Sandel)

JUSTICE with Michael Sandel
Lecture1 THE MORAL SIDE OF MURDER
『犠牲になる命を選べるか?』

ハーバード 白熱教室
アメリカの名門ハーバード大学で、最も人気のある授業ー。

サンデル教授の「JUSTICE(正義)」である。

現代の難問をめぐって、世界選りすぐりの知的エリートが

議論を闘わせる。門外不出の原則を覆し、初めて公開される

ハーバードの授業。白熱教室へようこそ。


Lecture1 犠牲になる命を選べるか
あなたは時速100kmのスピードで走っている車を運転しているが、ブレーキが壊れていることに気付きました。前方には5人の人がいて、このまま直進すれば間違いなく5人とも亡くなります。横道にそれれば1人の労働者を巻き添えにするだけですむ。あなたならどうしますか?サンデル教授は、架空のシナリオをもとにしたこの質問で授業を始める。大半の学生は5人を救うために1人を殺すことを選ぶ。しかし、サンデル教授はさらに同様の難問を繰り出し、学生が自らの解答を弁護していくうちに、私たちの道徳的な根拠は、多くの場合矛盾しており、そして、何が正しくて、何が間違っているのかという問題は必ずしもはっきりと白黒つけられるものではないことを明らかにしていく。
ハーバード白熱教室 Justice with Michael Sandel
Lecture1 犠牲になる命を選べるか



Sandel教授のトロッコ問題 (Trolly Problem)
Sandel:
あなたは時速100kmのスピードで走っている車を運転しているが、ブレーキが壊れていることに気付いた。
前方には5人の人がいて、このまま直進すれば間違いなく5人とも亡くなる。横道に逸れれば1人の労働者を巻き添えにするだけですむ。あなたならどうする?

ハンドルを切って横道に逸れる人は?手を挙げて。
   (多くの手が挙がる)

では、そのまま直進する人は?
   (ほとんど手が挙がらない)

その理由を聴こう。まずは大勢の意見から。

学生A:
1人を殺せば済むところを5人も殺すのは正しくない。
だから、1人を殺すことを選ぶのが正しい。

Sandel:
では、少数派の意見を聴こう。

学生B:
これは大虐殺や全体主義を正当化する心理と同じだ。
ある人種を残すために他の人種を消滅させる。

Sandel:
虐殺を起こさないために、5人を殺す?(笑)

学生B:
はい。

Sandel:
ありがとう。とても勇気ある意見だった。

では路面電車の別のケースを考えてみよう。
こっちのケースでも『5人を助けられるなら1人が死んでも仕方がない』という原理を皆が支持し続けるかどうか、見てみよう。

今度は君は路面電車の運転手ではなく、傍観者だ。
電車の線路のかかる橋にいて見下ろしていると電車の来るのが見えた。
線路の先には5人の労働者がいる。ブレーキは効かない。
このままだと電車は猛スピードで5人に突っ込み、5人は死ぬ。
今回は君は運転手ではない。
『何もできない』と諦めかけたとき、
自分の隣に橋から身を乗り出しているものすごく太った一人の男がいることに気づく。
もし君がこの太った男を突き落とせば、彼は橋から走ってくる電車の前に落ちる。
彼は死ぬが、5人を助けることができる。

  ・ さて、『彼を橋から突き落とす』という人は?手を挙げて。
   (ほとんど手が挙がらない)

  ・ じゃあ突き落とさない人は?
   (多くの手が挙がる)

突き落とさないという人がほとんどだ。
さあ、ここで質問だ。
『1人を犠牲にしても、5人を助けたほうがいい』という原理はどうなったんだ?
さっきはほとんど全員が賛成した原理はどうなったのかな?

どちらのケースでも多数派だった人の意見を聞きたい。
どうやってこの2つのケースの違いを説明するのか?
(一人の学生を指差し)君。

学生C:
2番目のケースでは人を突き落とすという能動的な選択を行わなければなりません。
僕が突き落とさなければ彼はその状況とはまったく関係がなかったはずで、
僕が彼を突き落とすという選択をしたせいで、
関係なかったはずの状況に彼を関わらせることになります。
最初のケースは運転手と5人と1人という3者の関係性だけでしたけど、
2番目はそれに別の要素が加わっていると思います。

Sandel:
でも待避線の男だって、太った男と同じに自分の命を犠牲にすることを自分で選んだわけじゃないよね?

学生C:
そのとおりです。でも線路の上にいた。

Sandel:
こっちの男は橋の上にいた!(笑)
あとでまた意見を言ってくれ。
これは難しい質問だ。キミの意見はすごくよかったよ。
この2つのケースで、多数派が矛盾した答えを選んだ理由がわかる人は?誰か・・

Andor:
最初のケースでは1人が死ぬか、5人が死ぬか、選ばなきゃいけないわけで、その結果人は死にますが、死ぬのは電車が原因であって自分が手を下したせいではないし、電車のブレーキは効かない上、一瞬でどちらか選ばなければなりません。
でも太った男を突き落とすのは殺人行為です。
突き落とすか落とさないかは自分の選択だけど電車の暴走は自分が選んだことじゃない。
だから状況が違います。

Sandel:
今の意見に対して反論がある人は?
良い意見だったが今の意見が正解だろうか?
(別の学生を指して)

学生E:
それは違うと思います。
どっちにしても、死ぬ人を選ばなきゃいけないのは同じです。
ハンドルを切って1人の人を殺すのも自分の意思による行為だし、
太った男を突き落とすのも自分の意思による行為です。
いずれも自分の選択であることに変わりはありません。

Sandel:
(先ほどの学生Dに対し)反論はあるかな?

Andor:
それはちょっと違うと思います。
やはり、実際に線路に突き落として殺すという行為だと、
自分が直に殺すということになるから・・

Sandel:
自分で手を下すからね。

Andor:
そうです。
運転していたらそれが人に死をもたらしたというのとは違います。
不謹慎かもしれませんが...。

Sandel:
いや、良い意見だ。キミの名前は?

Andor:
"Andor"

Sandel:
Andor, じゃあ、もうひとつ質問だ。
橋の上で太った男の隣にいるのは同じだが、突き落とさなくてもいいと仮定しよう。
彼は落とし穴の上に立っていて、キミはハンドルを回すと彼を落とせるとしよう。
(学生たちの笑いと拍手)
ハンドルを回すかい?

Andor:
いや、それは、さらにしてはいけないことのように思えます。

Sandel:
そうか

Andor:
偶然ハンドルに寄りかかったら、回っちゃった~ とかならいいけど(笑)

Andor:
あるいは、電車が落とし穴のスイッチに向かって突進しているとかなら納得できますけど。

Sandel:
よろしい、やはり抵抗があるんだね。
最初のケースではハンドルを切るのは抵抗がなかったけど・・

Andor:
最初のケースでは始めから状況は当事者だけど、このケースでは傍観者なわけです。
男を突き落として初めて当事者になるわけで・・


Sandel:
OK.

◆ 臓器提供の問題
今度は、君は緊急救命室の医者だと仮定しよう。
そこへ6人の患者がやってくる。
彼らは、ひどい路面電車の事故に遭ったんだ。(笑)
うち、5人は中等度の怪我をしている。1人は重傷だ。
重傷患者に一日中掛かりきりで手当てをすれば助かるが、その場合5人は死ぬ。
逆に比較的中等度の5人の手当てをすれば5人は助かるが、その間に重傷患者は亡くなる。

  ・ 医者として5人を助けるという人?
   (多くの学生の手が挙がる)

  ・ では、1人を助けるという人?
   (数人の手が挙がる)

とても少ない。ひと握りの人だけだ。
同じ理由だろうね。1人の命対5人の命だ。

では、別の医者のケースだ。
今度は君は移植医で、生きるためには臓器移植がどうしても必要な5人の患者を抱えている。
5人はそれぞれ、心臓、肺、腎臓、肝臓を必要としている。最後の1人はすい臓だ。
そして臓器のドナーはいない。君は5人の死を目前にしている。
そのときキミは隣の部屋に、健康診断を受けに来た一人の健康な男がいるのを思い出す。(笑)
彼は昼寝をしている!(笑)
そっと部屋に忍び込んで5つの臓器を抜き取れば、その人は死ぬが、5人を助けられる!

  ・ 『自分ならそうする』という人?
いるかな?そうする人は手を挙げて。
(手を額にあてて手を挙げている人がいるか探すしぐさ)上の方の人は?

学生F:
僕はそうします。

Sandel:
ホント? そうはしないという人?
(ほとんどの学生の手が挙がる)

Sandel:
よし、じゃあ意見を聞こう。
上にいる「健康な人から臓器を抜き取る」という君、理由は?

学生:
僕は違う可能性に賭けたいです。
臓器を必要としている5人のうち、最初に亡くなった人の4つの臓器を使って残りの4人を助けるんです。
(一瞬の沈黙のあと、拍手)

Sandel:
それは名案だ。実に素晴らしい。
ただひとつの難点は……
私の設定した哲学的な問題を台無しにしてしまったところだ。(笑)

さて、今までの話や議論から一歩離れて、
議論が展開してきた方向について明らかになった、いくつかの点を見て行こう。
今までの討論から、道徳の原理がいくつかその姿を見せ始めている。
これらの道徳的原理がどのようなものか、考えてみよう。


◆ 帰結主義 vs. 定言的道徳原理
    (Consequential vs. Categorical)

討論から出てきた、最初の道徳的原理は、
何をするのが正しくて道徳的か?ということは、行動の帰結で決まる
ということだ。
つまり、帰結、結果が良ければ善いわけだ。
1人が死ななければならないとしても、5人が助かるほうが善い。
これが、帰結主義者が道徳を論じるときの論じ方だ。
帰結主義者は、行為の帰結に道徳性を求める。
つまり、その行為によって社会が恩恵を受けることが大事なわけだ。

しかし、もう一歩進んで考えてみたところ、
別のパターンでは、帰結主義的な論法には賛同しない人が多かった。
ほとんどの人が、橋から太った男を突き落としたり、
何の罪も無い患者から臓器を取り出したりすることには、躊躇いを覚えた。
躊躇う理由は、行為の帰結とは関係なく、行為の本質に関係があるようだった。
帰結として5人が助かるとわかっていても、そうしようと思わない人が多かった。
何の罪も無い人を1人殺すことは、無条件で、すなわち定言的に間違っていると考えた。
少なくとも、例として挙げた話の2番目のケースでは、無条件で定言的に間違っていると考えた。
これは、道徳を考える際には、定言的な考え方もある ということを示している。
定言的な考え方では、帰結がどうであれ、ある種の絶対的な必要条件や、義務や権利の中に道徳性を求める。


道徳原理 (MORAL REASONING)
・ 帰結主義者 (Consequentialist)
    行為の帰結に 道徳性を求める
      : Jeremy Bentham ⇒ 功利主義 (Utilitarianism) 

・ 無条件的【定言的】な考え方 (Categorical)
    ある種の必要条件 義務 権利の中に道徳性を求める。
     : Immanuel Kant
        定言的=哲学で 仮定・条件を設けず、無条件に主張するさま



今後の講義では、帰結主義者と無条件的な道徳原理との間の対比を見ていく。
帰結主義者の道徳理論で、最も影響力のある例は、
18世紀のイギリスの政治哲学者 Jeremy Bentham が産み出した主義、
功利主義 (Utilitarianism) だ。
一方、定言的な道徳理論の最も重要な哲学者は、
18世紀のドイツの哲学者 Immanuel Kant だ。

この講義では、この2つの異なる道徳理論の論じ方を学び、評価すると同時に、他の論じ方を見ていく。
数多くの名著を読んでいく。
Aristotle, John Locke, Immanuel Kant, John Stuart Mill らの著作だ。
本を読むだけではない。
哲学的問題を提起する、現代政治や法律の議論も取り上げる。
「平等と不平等」、「差別是正措置 (Affirmative Action)」、「言論の自由 vs 憎悪発言」、「同性同時の結婚」「徴兵制」等、一連の時事問題についても議論していく。

なぜか?

過去の抽象的な名著を蘇らせるだけではなく、哲学のために、私たちの日常生活、および政治的生活における哲学的な問題を明確にするためだ。
だから、これらの本を読み、問題を議論し、どのように名著同士が情報を与え、啓発し合うか見ていこう。

哲学のリスク
楽しそうに聴こえるかもしれないが、ここでひとつ警告しておこう。
これらの本を自己認識におけるエクササイズ、自分をより深く理解するための訓練として読むことには、ある種のリスクがある。
リスクには個人的なリスクと政治的なリスクの両方があるが、
そのことは政治哲学を学ぶ学生なら、誰でも身を持って知っていることだと思う。


1. 個人的なリスク (Individual risk)
・ なぜこのようなリスクが発生するか?

哲学という学問は、私たちを、私たちが既に知っていることに直面させて、私たちに教え、かつ動揺させる学問だからだ。
ここに皮肉がある。
この講義の難しさは、君たちが既に知っていることを教えるという点にある。
それは、慣れ親しんで疑いを感じたこともないほどよく知っていると思っていたことを、見知らぬことに変えてしまうこともある。
私たちが今日の講義の冒頭で取り上げた例が、まさにそれにあたる。
「遊び心」と「真面目さ」を両方織り交ぜた仮説だったつもりだが、
哲学の本がどう役に立つか ということもこれと同じだ。

哲学は、私たちを慣れ親しんだものから引き離す。


新しい情報をもたらすことによってではなく、
新しいものの見方を喚起することによって、引き離すのだ。
しかし、ここにもリスクがある。
慣れ親しんだものが見慣れないものに変わってしまえば、それは二度と同じものにはなりえない。
自己認識とは、純真さを失うようなものだ。
不安を感じるだろうが、私たちは皆そんな思いを経験し、探求を続けてきた。
この試みを難しく、しかし面白くしているのは、道徳や政治哲学は物語であり、その物語がどこに連れて行ってくれるかはわからないが、それが自分についての物語だということはわかっている ということだ。
これが個人的なリスクだ。

2. 政治的なリスク (Political risk)
・ では、政治的なリスクは何だろうか?
本を読み、問題を議論することで、「より良い、責任感のある市民になれる」と君たちに約束するのも1つの方法だ。
それによって君たちは、公共政策の前提を検討するようになり、自分の政治的判断に磨きをかけ、公共の事柄により効率的に参加できるようになる。
しかし、この約束は部分的にしか実現せず、違う結果に終わってしまうことが多い。
政治哲学はほとんどの場合、そのようには機能してこなかったからだ。
政治哲学は君たちを『良い市民』にするよりも、『悪い市民』にする危険性を秘めている。
少なくとも、『良い市民』になるを過程で一旦『悪い市民』になってしまう可能性がある。
なぜかというと、哲学は人を社会から距離を置かせ、衰弱させるような活動だからだ。

Socrates の時代でもそうだった。
Plato の『Gorgias』という対話の中で、
Callicles は Socrates に哲学をしないように説得する。
「人生の然るべき時に節度を持って学ぶなら 哲学は可愛いオモチャだ。
   しかし、節度を越えて追求するなら破滅する。私の助言を聴きなさい。
   議論を捨てよ。行動的な人生の成果を学べ。
   気の利いた屁理屈に時間を費やしている人ではなく、
   善良な生活と評判と他の多くの恵みを持っている人を手本にせよ。」
要するに、
「哲学なんかやめて、現実を見よ、ビジネススクールに行け。」(笑)
と言っているわけだ。

懐疑主義 (Skepticism) と Sandel の反論
Callicles の言うことも、もっともだ。
哲学は、常識や約束事、なんとなく「そうだ」と信じていることに疑いを抱かせる学問だ。
これは個人的にも、政治的にもリスクである。
これらのリスクに直面したとき、よく使われる言い訳、
それが、「懐疑主義」(Skepticism) だ。
例を挙げると、
私たちは色々なケースや原理について議論したけれど、何も解決しなかった。
Alistotle や、Locke, Kant でさえ、長年かけても解決できていないのだから、この講堂に集まった私たちが、たった数回の講義で解決できるわけがない。
要するに、
各自が自分なりの原理を持てばいいのであって、それ以上の議論は必要ない。
論じても無駄である。
これが懐疑主義の言い訳だ。

これに対しては、私は次のように答えたい。

確かにこれらの問題は長年に渡り議論 されてきた。
しかし、それが繰り返され、議論され続けてきたという、まさにその事実が、
この問題の解決は例え不可能であっても、
議論を続けることは避けられないということを示唆している。

なぜ避けられないか?

私たちは、毎日、これらの疑問に答えを出しながら生きているからだ。
だから懐疑主義に飲み込まれ、諦めてしまい、道徳に関する熟考を止めてしまっては、
解決にはならない

Kant はこの懐疑主義に絡む問題を、次のように表現している。
『懐疑主義は人間の理性の休息所である、
   しかし、永遠に留まる場所ではない。』

     Immanuel Kant
懐疑主義は人間の理性の休息所である。
そこは独善的な彷徨いを熟慮できるところだ。
しかし永久に場所では留まる場所ではない。
単に懐疑主義に同意しても、理性の不安を克服する事は決してできない。

私は、対話や議論を通じて、ある種のリスクと誘惑、その危険と可能性を示そうと思う。

この講義の目的は、
理性の不安 (restlessness of reason) を目覚めさせ、
それが何処へ導いていくのか、見ることだ。
と述べて締めくくりの言葉としたい。